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さう云ひながら一寸横目で自分の膝のわきに据ゑたずつしりと厚味のある榧かやの碁盤を眺めた。
今さつきまで誰もいなかつた通りの、ずつと先きの方から黒い人影が歩いて来るのである。袴をはいて小さな風呂敷包か何かを抱へている、そのやはり背高な、直立したまま急ぎ足に歩く恰好はまぎれもない町役場の書記の今泉だつた。
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
が、それもこれも一週聞か十日たつうちには、たちまち漠とした過去の中に滑りこんでしまひ、目立たなくなり、ぼやけ、遠のき、ふたゝびあの河原町特有の単調さがあたりを支配し、だるげな瀬のどよめきが耳につき、季節の曖昧な足どりが現れ――或る日はさらさらいふかすかな音を立てて雨が通りすぎ、曇つて何となく冷え、急にぱつと日ざしが輝き、又冷え――そして、年ごとに絶えず繰り返へされながら絶えず或る新しさを持つて、慣れることのない、捉まることのない冬が、底冷えと疾はやいおびたゞしい雪もよひの断雲と刺すやうな寒風とを伴つてやつて来た。
「なあ、先生」
小谷の店では実にあらゆる品を売つていたが、その中には僅かだが薬品類もあつた。したがつて、高間医院は小谷にとつて多少のお得意先でもあつた。今では、小谷は心易立てに注文のあつた薬品を「店主自から」ぶらさげて房一の所へ持つて行き、そのまゝ話しこむやうになつている。
「そうしてそのお松と言う女は?」
房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めていた。
彼は、医師検定試験といふものが実際は医専を出ることなんかよりはるかにむつかしいものだと知つてはいたが、しかし、正規な教室で得るところのものは難易にかゝはらない何か別の正統さといつたやうなもの、より科学的な、――つまり、医者らしさだといふことを、心のどこかで信じていた。それが、房一には欠けている、といふ風に思はれた。
彼はそれを云ひに来たのだつた。
と後を追ふと、徳次は
「きさま!あれほど云つたぢやないか。何んだこの真似は!」
房一は微笑しながら答へた。彼はそのとき、今日が自分にとつてのはじめての往診だといふことを思ひ出した風だつた。その内心の悦ばしさは厚ぽつたい唇のはしに押へきれず浮び、いくらかはにかんだ風に見えた。この羞はにかみの色は浅黒い饅頭のやうな房一の顔に現れたものだけに、何となく滑稽な感じだつた。
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