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    「さうかよ。おれは又、河原町を通るんだとばつかり思つた」

    熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。

    「さうか、惜しかつたな」

    徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。

    その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じていた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしていた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つていたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話していた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつているので、話のつけやうがなかつた。

    盛子は時々半ば無意識に呟いた。

    「どうしませう、ほんとうに!すつかり落しておしまひになつたんですのね。――どうも、さつきから様子がちがふと思つていたんですが、道理で!――さうでしたわねえ、お髯がなくなりましたわねえ」

    浴漕は中で二つに仕切られていた。それは一方が村の人の共同湯に、一方がこの温泉の旅館の客がはいりに来る客湯になっていたためで、村の人達の湯が広く何十人もはいれるのに反して、客湯はごく狭くそのかわり白いタイルが張ってあったりした。村の人達の湯にはまた溪ぎわへ出る拱門型に刳くった出口がその厚い壁の横側にあいていて、湯に漬って眺めていると、そのアーチ型の空間を眼の高さにたかまって白い瀬のたぎりが見え、溪ぎわから差し出ている楓かえでの枝が見え、ときには弾丸のように擦過して行く川烏かわうの姿が見えた。

    それは杉倉といふ所から来た。塔の山とは反対に、ずつと上手に河原町を出外れて、それから更に急坂を一里ばかり上つた所の、相沢といふ家だつた。相沢と云へばこの近所では誰も知らぬ者はない、そんな不便な土地でありながら大きな酒造家である。使ひの者が来て、急ぎはしないが明日あたりにでも往診してほしい、と云ふことだつた。房一にはそんな相沢みたいな家から往診をたのまれやうとは意外であつた。

    「閉口でしたな」

    房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。

    「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」

    「往診ですか」

    【夏休み旅館情報】
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